勝負服。


 二十代、わたしの勝負服はシミだらけのシャツと腰まわりがゴムの綿パンツでありました。で、夏になったならそれがさらに薄着になり、寒さが増せば厚着になるだけの、ほとんど父親の野良着レベル。わたしときたら二十代の大半の時間をそんな姿で過ごしていたのか、それで、可哀想だったのか、と感慨深いものがあります、な。

 その頃のわたしの仕事は雑誌の割り付け屋。

 鉛筆と消しゴム、赤のサインペンと定規、級数スケール、カウンター(道路に座って、通行人やクルマの数を勘定してるの見かけるでしょ? カチャカチャ音がするアレがカウンターで、それで原稿の行数を勘定しておりました)がおもな商売道具で、あとは机にくぎ付けになるだけの労働だったので、それほどの仕事着に執着しなくてもよかったのですが……。なにしろ、1日の就労時間が24時間マイナス数時間の睡眠と夕食(朝食と昼食は片手作業でした)以外のほとんど全てだったので、せめてもの罪滅ぼしにと、家では躰にやさしい作業着をあてがっておりました。袖は2B3Bの鉛筆の粉でビカビカに光っちゃうし、片手で食べたおにぎりやサンドイッチの食べかすがいついかなる時に降ってきてもいいように、幼児レベルでもありました。曲げっぱなしのズボンのひざ小僧は、イスの上で胡座もかくし、ゾウの鼻のようになっちゃうのですよ。

 営業に出かける夕方時までパジャマのままでいることもありました。着替えの時間が惜しかったという言い訳もありましたが、単に着替えのきっかけを逸し、どうせどちらもずさんな身なりに変わりがないのだし、と感じること多々あり。でも、突然の集金人や宅配の方々の訪問には、パジャマはよくありませぬ。けじめだけはつけなくては、と恥じらいくらいはありました。

 で、営業用の外出着は、第2の勝負服。気配りのない服装は気配りのない仕事を想像させてしまうので、要注意であります。

 で、その頃の残党が、わたしのタンスの上下あたりで眠っております。数回しか着ていなかったセーターなのに、旅行中、母親に預けて虫の餌にされてしまったのもある。そんなんだったら、第1級の勝負服にしとけばよかったわいっ!


 写真は20年前の第2級の勝負服。渋谷パルコの中2階で購入。当時は肩を出したまま着ていましたが、今はそんなかっこう、寒くて想像だにできません。今朝も、クラマエに「まだ着てるの?」と言われましたが、この真っ赤な服、世間の目に自粛をよぎなくさせられる前に、早くボロにしとかなければなりません。

「帰りには捨ててこよう」
 そう思って着ていったシャツもパンツも靴下もタオルでさえも持ち帰ってきて、次の旅でも同じ思いで旅立つわたしだ。

 いつになったらこのイタリアンな服が、わたしのタンスから消えるのでしょう。