トイレでひとりグチる。

 ウォシュレットの水の勢いに、元気がない。なにか詰まっているのかなぁ、心配です。

 先日、「古い家電が発火云々」という記事を新聞で見た。タイトルだけ見て記事は読まなかったけど、読んでおくべきだったな。
 ウォシュレットはもうかれこれ14、5年使い続けているから(あるのなら)モーターがくたびれているのかも。その前に18年目に突入したテレビが発火しそうだ。画面の中の出演者全員が酔っぱらいのような赤ら顔で、赤鬼してる。なんだか昔の雑誌にあった赤と青の2色刷りのカラーもどきのような画面だ。
 オソージガカリさんが「カラーであることを忘れてくれて、いっそ白黒画面になってくれたらいいのに」とぼやいている。

 テレビは小さなのがあるので、突然に逝っちゃっても困らないが、ウォシュレットはそうはいかない。今の家のトイレは床が木なので、水浸しにするわけにはいかないのだ。ウォシュレット導入前、バケツにお湯と手桶で処理していて、トイレの床を濡らした。今や海外から戻ってきて何が嬉しいかって、わたしは日本食よりウォシュレットですね。

 だからデパートやお店のトイレにもウォシュレットが普及して嬉しい。でも嬉しくないのが、トイレの擬流水音と自動ってやつだ。
 駅などのトイレに入って水を流そうとボタンを探すのだが、わかりにくい。手をかざせとあってかざすと擬流水音で水は流れない。ボタンが複数あってメガネを出さねば、どれが水なのか音なのか、文字が読めやしない。トイレの中のボタンは緊急呼び出し用の赤いボタンと水を流すためのボタンのふたつだけにしてほしい、とこのごろ切に思う。

 ふ〜。

 できれば、「手をかざす」はやめて、わたしはしっかりと押したい。それで、節水とかいって擬流水音があるのに、自動が節水をジャマしてる。ちょっとカラダの角度とか位置を変えただけで、まだ途中だっていうのに水が勝手に流れる。用もモノもないのに、何度も水が流れる。
 トイレの中に「節水をお願いします」の貼り紙と「自動」があって、そんなの共存できやしない。

 むかし、と言っても80年代後半だったのか90年代前半かな、シンガポールで「路上でのタバコのポイ捨てに罰金」があり、それに「公衆トイレを使用後、必ず水を流すこと。流さなければ罰金」とか言ってた。一部のシンガポール人は、後者に抗議していたのだ。というのも、当時、「わが国は水さえもマレーシアから輸入しているのに(今はどうなのか?)、水を流すとはもったいないことだ」というのが理由だった。

 その彼らの意見の行方は知らない。

 わたしとしては、公衆トイレにいちいちメガネを掛けて入りたくないので、「ボタンの数を減らしてくれ」のお願いと、手をかざしても反応が鈍くって正体のわかりにくいセンサータイプもやめてほしい。それにエコと自動は矛盾してないか?

 50代になったわたしには公衆トイレで擬流水音は要らない。駅のトイレなどで、隣りのトイレからあられもない音がしてくることもあるが、50代ともなると(40代でもそうだったけど)、「間に合ってよかったね」と人ごとながらパチパチと拍手したくなる。

 とかなんとか思っていたら、「携帯用のトイレの流水音が発売された」という記事を読んだ。
 ヒトのこととやかく言えないが、どーいうヒトたちが買うのだろう? 解説ではエコグッズということだったが。10代、20代の女性にはこーいうのが必要なのかなぁ。30代はどうなんだろ? どのあたりに分岐点があるのだろう?

 わたしはそのあたりを超えて久しいので、そういうのをエコグッズと認識するのがやや難しくなっている今日この頃であります。