ブタうさぎだったあの頃。


 人に世話させることはあっても、人の世話なんてやけるはずないじゃん! だった女子高生のわたしたちは、みーんなそろってブタうさぎだった。

メコンの国々』4版のゲラと赤ペンとメガネを持って、新幹線に乗って親にも内緒で高校の同級会に参加した。で、最後までいることができないまま、とんぼ返りしたんだけど、ブーメランだったかも。
 どっちが早いのかな?
 卒業以来、一度も会ってなかった担任に、なんだか会いたくなって、見かけによらずセンチなハーフセンチュリーの始まりをやった。
 もう誕生日が来てしまったわたしは「アリエスの乙女」なのだ。

 わたしの通っていた女子校は、今や死語と思われる風紀規則がとても鬱陶しい学校でありました。ほとんどの生徒がどこかしらで校則を違反していて、それでもしつこく常に呼び止められることはなかったけれど、たまにやるチェックが笑い話みたいだった。
 セーラー服のスカートのヒダの数まで決まっていて、膝下たしか5センチの丈も決まっていた。髪が肩に付いたらきっちりと結わえなくてはならなかったし、おかっぱヘアーのモデル、山口小夜子が脚光を浴びたときには、おかっぱヘアーさえも風紀規則に引っかかった。
 訳がわかんない。
 レインコートもカサの色も「地味な色」と指定されていて、わたしのモスグリーンのカサは、朝の校門で呼び止められた。
「モスグリーンは地味です」と抵抗して校門をくぐった。
 なんなんだ、訳がわからない。

 毎日あった朝の礼拝。たまにその礼拝堂の外で、定規を持った先生方が待ちかまえていた。その定規でスカートと膝の関係を測るのだが、その気配を察してわたしたちは腹を脹らませてスカートを胸の下まで引き上げた。だけど、オンナのセンセイに、つんつんとスカートを下に引っ張られて、あえなく落下。
 そんなことして、今にバチが当たるぞ! とわたしは声を出さずに呟いた。
 今では想像できないが、セーラー服のスカートは長いがオシャレだった。中学生は三つ折りソックスが決まりで、高校生になるとアイビーソックスが許された。もちろん、色は白のみ。冬になったら濃紺と黒のみ可だったけれど。

 年頃のムスメたちをそんなにタイトに縛って、どうしようってんだ。だからわたしなんか弾けちゃったクチだな。
 制服と理不尽な決まり事のあるところには絶対近寄るまいっ!──を人生の指針とした。それは、制服が似合えば幸せ者だけど、似合わない制服だったら、美人に生まれなかったことに輪をかけて不幸度が増すってものさ。
 厳しい風紀に縛られつつも、眉毛を細くしたりまつげをカールしたり、リップクリームを塗って、ぺしゃんこに潰したカバンを提げていたブタうさぎが大半だったけれど。

 変わってないね──とか言ってもらったけど、それは誰だかすぐわかったってことなんだな。「あの人、誰だっけ?」という囁きが、当時の呼び名を言うと「あ、そうか」という声に変わるのも面白かった。それにしても、あまりにも変わってなかったふたりが、ふたりとも外国暮らしってのはどういうことだろう。ひとりはアメリカで働きアメリカ人と結婚していて、もうひとりはイギリスに住みイギリス人と結婚していた。

 そうそう、会いたかったヤマダ先生もほとんど変わってなかった。担任だった頃、おじさん級の扱いをしていたのに、当時の彼はまだ20代半ばあたりだったことを今回知った。そういえば、冬になるとスカートの下にジャージのズボンをはく姿に「そういうのはやめてほしい」とか、制汗剤のエイトフォーを教室で使われるのをたいそう嫌った訳が、そういうことだったんだな。

 今じゃ、ムスメをムスコを世話しているハハが大半で、ムスコにヨメが欲しいとか言っている彼女もいた。給食のおばさんをやり始めて2年、ようやく「おばさん」という呼び名に慣れたのに、先日は「おじさん?」と訊かれてしまったと嘆いていた彼女もいた。
 とにかくあの頃は想像もしなかったし(わたしは)、想像できないような人生をみんなが歩んでいて、再び、人生一筋縄ではいかないな……と思ったのでした。

 わたしはまだブタうさぎだなぁ。