藍について。


 金輪際、着るまいと思った色がある。

 ふたつ年上の従姉妹がいる。彼女の性格はともかくとし、博多人形系の風貌をしていてスタイルもよく、幼き頃から今もとても美人です。
 わたしのいじけた性格のはじまりは、彼女との……その小学生低学年のあたりから発生してると推測している。

 小学生のとき、彼女のおさがりを着せられた。とてもイヤだった。おさがりがイヤだったんじゃなく、それらの色とデザインが嫌いだった。博多人形系のオンナのコのために選んだモノが、どこにも似たところのないわたしに似合うはずがない。それは子ども心にもわかった。似合わないモノを着ているということがわかっている哀しみ、誰が知ろう。
 彼女のおさがりの服は、たいていが紺や焦げ茶のタイトなワンピース。おさがりを卒業できたというのに、中学生になったわたしを待っていたのは、紺色のセーラー服。似合わないセーラー服を6年間着つづけて、決めた。ぜったいに制服のあるところには近寄るまい。
 で、わたしの行く手はどんどん狭まっていく。

 かつて、パステルカラーが巷を席巻していた時期が、ほんのひとときだけどあった。ちょうど学生時代のことで、提出する課題の色がどいつもこいつもパステルカラーばっかりだったことがあったなかで、ある女性の課題にはピーコックブルーが大胆に塗られていて、わたしはその色でウロコを落とした。
 いろんな青があるなかで、紺にひっくるめられがちなピーコックブルーなのに、ケント紙に塗られたポスターカラーのその色には、光の当たり具合で赤が見えたり、ブルーだけじゃない色を放っていた。
 以来、ピーコックブルーを「金輪際」の紺からそっと外した。

 その後、サントリーだったかな、かなりむかしのテレビCMのなかでピアノを弾いていた女性の着ていた衣装が、かなり深い、闇色した紺だった。黒でもよさそうなのに、敢えて紺。スタイリストのセンスの効いた衣装だった。いつか、あの闇色した青が似合うようになれたなら、少しだけ紺に対する偏見も薄らぐのでは……と紺の意見も聞かずに一方的に紺への思いを煮詰めた。

 30歳になったとき、自由を感じた。それは「若い」からの解放だった。20代半ば手前で会社に属することをやめ、オンナでしかも若い、フリーランサーというには未熟な三重苦の状態の中から、片足を抜いた気がしたからだ。あくまでも、「気分」です。そしてあれよあれよという間に、いつしか若ぶってしまう年齢になってしまった。
 ヒトはなんとわがままな生き物でしょう。ないものねだりばっかりしている。
 相変わらず口にするモノは緑が好きで、うさぎの食卓しているが、この頃、身につけるモノに青系が増えつつある。それで、藍染めが気になっているのですが、手が出ない。毛嫌いしていたあの頃に藍を好きでいたなら、わたしの引き出しの中には藍がたくさん詰められていたんだろうに……な。
 あのときの「金輪際」の意気込みははどこへやったんだい? ってことだが、好きになるのが、だいぶ遅れてしまった。せっかくピーコックブルーが似合う年齢になって、藍染めに潜む奥の深さに目覚めたっていうのに、わたしの前に立ちはだかるものがある。高いのね。ちょっと高いんじゃなくって、ものすごく高かった。
 今、西陣織の現場も技術も北朝鮮に、その場を移している──そんな話を聞いた。日本人の人件費では、技術と手間のかかり具合で採算が合わないんだそうだ。天然藍染めもそうなんだろうな。わたしの引き出しの中の藍は中国製だったり、インドネシア、西アフリカで染められている。藍には違いないんだけど、袖をとおすのが惜しくなるような「藍」になってしまうと、日本の藍がどこかへ行ってしまいやしないかと、勝手に心配している。
 藍に届け、わが想い。聞こえてる?

 わたしはまだ「焦げ茶」を許してないが、そのうち、受け入れられる「訳」が生まれてくるんだろうな。