モートルの音

 ミシンを買った。

 中古なんだけど、ふふふ……のパワーある職業用ミシン。といっても、これからそれで身を立てようとしてるんじゃない。だけど……ふふふ……と、嬉しい。

 実は、ながいこと「職業用」っていうのに憧れていたのだ。

 ずっとずっとむかし、結婚の予定も計画もなかった20代半ばちょっと前に、「嫁入り道具の前倒し」ということで両親にミシンを買ってもらっている。当時、ミシンは高い物だった。はっきり言って、今のわたしならミシンにそんな金額を出しはしない。だけど、「欲しい……」となると居ても立ってもいられなくなる性格だから。で、当時のわたしは「嫁入り道具のひとつ」ということで、早々とねだってしまったのだ。

 そのとてつもなく高かったミシンは、アルファベットの刺繍に加え、ちょっとした動物キャラなどの刺繍、ボタンホールやら裾かがり、しつけ縫いなどいろんなことがつまみひとつで指図でき、たしか28種類の縫い方が「マイコン制御」なんだったか「マイコン機能」とかいう謳い文句の下でできる高性能機種だった。

 強くねだっておきながら、わたしときたら、袋を縫ったり繕いにミシンを使う程度で、まさに猫に小判の見本版。だけど、高額ミシンは繕いに大いにチカラを発揮した。厚いジーンズの裾を三つ折りにしたって、すり切れた革ジャンに革を当てての補強縫いだって屁のカッパで、ずんずん進んだ。で、ばしばし縫えた。かなりの山も越えたので、わたしの趣味に「繕い」が加わったほどだ。

 ひとつ難点をあげれば、とても重かった。

 その後、マイコンという繊細な機能を持つそのミシンを持って何度も引っ越しをした……ら……あらら、マイコンが壊れて直線縫いしかできなくなって、それでも引っ越しを繰り返したら、とうとう動かなくなった。リヤカーの荷台に載せて運んだこともあったが、あれでかなりのダメージを与えてしまったな。

 8年ほど前、今度は自分の金でミシンを買った。だいぶ安くなっていた……というか、店に並ぶミシンはピンからキリまでの品揃え。で、こんなものかな……という値段の軽めのミシンを買ったが、ぜーんぜん違うじゃない。今度のは刺繍などできないけれど(しないから必要ないのだが)、ボタンホールや使ったことないので何ができるのかわからない縫い方など、つまみを回すといくつも縫い方サンプルの絵が出てくるなどできることは似ているも、直線縫いしかしないのは 20代の頃となんら変わりはなく、しかし……だ。今度のは山が越えられない。

 しくしく……だ。

 山では徐行するが、途中で針が曲がる。もしくは折れる。ひと針ひと針、車輪(?)を手で回して用心深く進むが、たくさんの針をだめにして山は諦めることにした。だから安物の革ジャンは、今もすり切れたままだ。

 小田急線に経堂という駅がある。その駅から徒歩数分のところに小さなミシン屋があって、職業用の中古のミシンも扱っていると紹介された。

 取扱説明書がないってのが中古ミシンだってことを証明しているけれど、見た目はとてもきれいに手入れされていた。前の使用者が丁寧に扱っていたのでしょうか? 店の主人が20キロ近く離れたわたしのうちまで届けてくれた。それで小一時間かけてミシン針の説明と取り付け方、糸のかけ方、下糸の巻き方、ボビンケースの説明、そこからぐんぐん奥深いところまで進んで話はミシンの歴史にまでおよんだ。ふむふむ、シンガーミシンはサーカスの衣装を縫う両親を思っできたモノなんだそうだ。

 ああ、それはともかく、懐かしのボビンケース。今でも現役の母のミシンは、足踏みミシン。家にいた頃はわたしもそれで縫い物をしたが、糸を絡ませてはボビンケースを取り外していた。あのボビンケースが今、わたしのモノになった。8年前に買った家庭用ミシンには取り外せるボビンケースはないのだ。

 ミシン屋の主人は針に糸を通し、そのボビンケースを外して構造まで講義してくれたのだが、針に裸眼で糸を通すのには驚いた。

「丈夫な目を両親からいただきましたので……」と言う。そして、「この目でミシンの細部を見ることができなくなりましたら、ミシン屋を廃業します。メーカーに修理をお願いしますと配送費、修理費とずいぶんとお金がかかってしまいます」と。年の頃、六十代半ばでしょうか。思わず、「そんなことおっしゃらずに、わたしがミシンを扱える間、どうか廃業しないでくださいませ」と言ってしまった。

 彼の地で父親の代からのミシン屋ではあるけれど、彼のご子息はそれぞれに希望する職業があって後継者になってはいないとのこと。

 山を越えられないのは、やはりモーターの力量でしょうか?――のわたしの問いに、ミシン屋の主人は「モートルではありません。ミシンの重量です」って。職業用のミシンの裏側に付いているモーターはそれほど大きくはなく、それほど重そうではない。わたしの家庭用ミシンの重量は7.5キロ、職業用は10キロ。これはミシンを覆っている外側だけの重さじゃないとおもうのですが、能力と重量は比例するものなのでしょうか? 重けりゃエライっ! なら、わたしだって負けはしないっ!

 まあいいや。それよりもミシン屋の主人の話す言葉の中に、何度も「モートル」が出てきた。わたしが「モーター」と呼んでも、彼は「モートル」とその部分を呼ぶ。とてもその響きがよくって、わたしのミシンにはモートルと呼びかけることにした。電源を入れてスイッチを足で押さえると出るその音も、とても軽やかでさわやかです。

 わたしの憧れのだったモートル。これで山を越えよう、荒れ地を進もう! と決意した日曜日の午後。