ボロとポンコツの違い。

 発送を終えて、カラダがだるい。今回は背中とお尻の両ほっぺたあたりに筋肉痛がある。
 そうか、久しぶりにこのあたりの筋肉を使ったんだな・・・が推しはかれる痛みだ。昨日と違うことをやって、カラダの具合を知る。そうやって、自分のカラダを点検するんだ。そのイタミが、お尻の存在や背中の位置を脳に知らしめているような気がする。

 先月、紙とペンを使って足し算をした。乱雑な文字で、しかも縦のラインを揃えてなかった・・・といういい訳もしたいが、電卓を使って確認したところ、ことごとく合ってなかった。
 しくしく・・・を通りこして、ショックだった。こんなにわたしの脳は鈍ってしまっていたのか? いや、それほどじゃないはずだ。もっと数字を丁寧に書いて、縦のラインを揃えて、今月はていねいに足し算をした。
 合ってる。よかった。

 カラダも脳もポンコツになってく。ちょっと数年前は冗談めかしてそんなこと言っていたが、そろそろ本気モードに突入。鍛えねば。脳もカラダも。

 で、昨日、浅草に行って感動的なボロを見てきた。で、ポンコツもそんなに悪くないな・・・って気分が、いま、脳を満たしている。正確に書くとボロじゃなくって「BORO」なんだけど。浅草のアミューズ ミュージアムというところで「布を愛した人たちのものがたり」展をやっていて、民俗学者の田中忠三郎さんが40年以上の歳月をかけて集めたボロ布を見てきたのです。

 江戸時代から何代にもわたって、青森の山村や農村や漁村で着つづけられてきた衣装が、それはそれはもう感動的に素敵で、現代アートのようでもありました。女の子のためにあてがった布もあっただろうし、大事な夫のためにあてがった布もあっただろうけど、これしかないからあてがった布も多くあったんだと思う。手元にある限られた布を継ぎあてて、それらが積み重なって、パッチワークとは全然違うアートになってしまったボロ布に、勝手に自分を肯定されたような気分になって帰宅したのです。

 布団サイズのどてらがあって、本当に布団にしていたんだけど、重さが13キロとか15キロもあるだそうです。綿が入っていればもっと軽くてもっと暖かなものだったのでしょうが、それらが継ぎ接ぎだらけの布でできているなんて、愛の執念の重さでしょうか。
 麻しか着てはいけなかった時代があり、青森の寒い冬を越える手段から生まれた布が、あのわざとらしく千切れたショットガンパンツ(って昔は言ってた)を蹴飛ばしてたね。
 無作為のようでいて、どんなときでも人には美意識があることをあらためて確認してきた。あれが無作為のボロとは思えない。

 こうなってはもう、どんな布も捨てられません。軟体動物状態のオソージガカリさんのTシャツさえ、アートの種に見えます。
 来年の2月末日までやっているので、どうぞ。いまだ、感動が抜けません。