適量とは?

 夏の終わりにツルを伸ばしたカボチャ(冬瓜だったという説もある)は、大型台風がやってくる前に処分した。ツルが吹き飛ばされてご近所迷惑になるやも知れぬと、思いまして。
 その跡を継ぐように育ちだしたピーマンが、そろそろ収穫できる。少しだけど。
 どちらも土に埋めた生ゴミからの贈り物です。オマケの産物です。毎年、土に埋めた生ゴミから野菜が芽を出すが、そこがクルマの後輪あたりなので、たいてい轢かれてダメになる。もしくは再度の生ゴミ埋めで掘り起こされて、ダメになる人生を背負っている。しかし、今回はカボチャもピーマンもそこから離れた場所で芽を出し、ピーマンに至っては収穫間近までたどりついた。
 だから、残暑に期待している。違うな、暖かな秋日和だな。
 パパイヤは大きなモノは両手の親指と中指で作った輪っかサイズまで膨らみ、濃いミドリ色になりました。濃いミドリ級のパパイヤは10個ほど。やや薄めのミドリ級は4個、まだ未熟色したものも4個ほどあって、わたしのパパイヤは、このあとどーなるのでしょう?
 静岡で母の友人93歳作の見事な唐辛子をいただいた。1本の枝にたくさんの真っ赤な唐辛子がついていて、とてもきれいだ。花瓶にさせば花になるからと言われて、母がもらったものだが、わたしにまわってきた。
 実はわたしも唐辛子を育てている。今もその途中で、唐辛子は短く生い茂った葉に埋もれている。この違いはどこから? と母に問うと「肥料のやりすぎだ」のひと言で、切り捨てられた。
 それで、葉っぱが茂りすぎてしまったようだ。
 実はわが家は田んぼをもっている。ずっとお米をつくってきていて、わたしはお米を買ったことがない。ずっと前にあったお米騒動の時も、普通に食べられた。しかし、知らされぬまま、ある年から父は田んぼをご近所さんに貸して、知人の農家から米を買う食生活になっていた。
 手放してしまった田んぼもあり、先日の日曜日、母をクルマに乗せて最後まで残っている田んぼを見に行った。母によると、田んぼに引きいれている水はとても良質のわき水で、その水はとても冷たく、長く足をつけていられないほど。だから、脇の水路で少し温めてから田んぼに水を引きいれている、一級の水を使える田んぼであることが彼女の自慢です。
 が……だ。その田んぼに近づいて、母が「嘆かわしい……」と。
「こんな風景は、この田んぼに関わった50年と、そのあとだって見たことがない」
 田んぼの稲が根元から倒れていた。全部じゃないけど。昨日の雨で倒れたんだね、と慰めたが、そうじゃないと言う。
 肥料のやり過ぎだ───が、母の説。
 肥料は与えるには時期がある───それくらいは、わたしにだって想像がつく。
 が、アタマを重くし過ぎて風で倒された。多くを実らせるばかりがいいことではなく、適量があるのでしょう。どうすれば、その適量で止まってくれるかが、お百姓さんの腕の見せどころ。
 昨年までは母のお気に入りのウルちゃんがこの田んぼを世話してくれていたが、いろいろ複雑な事情があって今年は彼の手がはいっていない。そのせいだ───が、母の説。
 うちの田んぼでおきた初めての惨事に「情けない」を繰り返し、家に戻ると今はもう少ししか残っていない畑の世話をしだした。昨日の大雨で泥に汚れた大根のまだ小さな葉っぱをひとつひとつ洗い出した。
 葉っぱの根元に泥が詰まって息ができないからね、かわいそうだよ。
 ふ〜ん、わたしが母とすごした10代、そんなに優しいことば、かけられていただろうか? でも、その夜に食べた、間引いた大根の葉っぱのお浸しはとてもみるくて美味しかった。妹の夫は、母のつくった大根の葉っぱのゴマ和えを「お母さんのほうれん草のゴマ和え、とても美味しかった」と礼を言って「コウちゃんは、ものの味を知らぬ」とがっかりしていた。
 ふ〜ん、わたしには「ゴマ和えはめんどうだ」と、茹でただけの大根の葉っぱだった、とここでも拗ねたくなる、ひがみ根性の長女です。
↓先週のピーマン。